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TANeFUNeの風景


 

TANeFUNeが出港してから、
時間があれば、舞鶴から寄港地に向かって、
14年式のワゴンRで、
僕は住んでいる街を出て、
見知らぬ港に入る。

最初に目にするのは車窓で切り取られた道路の風景。
そしてその向こうに港の風景がみえてくる。

 

舞鶴に来るまでそんな生活になるとは思ってもいなかった。
京都にいるときは、自転車から住んでいる街をみて、
見知らぬ街をみていた。

思うに、
車から見える景色と自転車からの景色は違う。
みえている「もの」は同じかもしれないが、
その受け取り方が違う。

車で京都にいったとしても、
もはやあのときの僕の風景はない。

歩いたとき、走ったとき、自転車に乗ったとき、車のとき。
同じ場所にいくつもの速度域の風景が折り重なっていく。

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『種は船』プロジェクトを始めてから、
僕もTANeFUNeやその他の船に乗る時もある。

 

出港前、五十嵐船長と幾度となく
「海と陸の時間」の違いという会話を交わした。
船に乗ると確かにそれを実感する。
おそらくそれは「風景」の違いだ。

 

新幹線や車や自転車、歩いたり、走ったりすることでみえてくる「風景」は、
あくまでも「陸の時間」の範囲内。
そう思えるほどに、
船から陸地を眺める「海の時間」は違う。

当たり前のことだが、
海から眺める港の景色は陸から見ることはできない。
そして港は海から来る者たちのためにある。

海と陸の違いだけじゃない。
「船」という乗物の速度の在り方も未経験のものだ。

もちろん船に乗る日常を送っていないから、
改めてそう思うのかもしれないが、
逆にいえば、だからこそ「海の時間」を異化し実感できている。

そして「TANeFUNeの時間」は「海の時間」のなかでもさらに違う。

TANeFUNeはデッキと海面が近いから、
海面のうねりを細かく感じることができるけれど、
実は速度が7ノット(時速13キロ)しかでない。
面白いことに、25馬力の船外機から60馬力の船外機に乗せ換えても、
海の男たちが首をかしげるほどに速度は変わらなかった。

TANeFUNeは極めて不思議な風景を僕らにみせてくれる。
独特の速度域と、港での人との出会い。そこからみえてくる「風景」。
シンプルにみえるけど、この企画だけが体験させてくれるものだ。

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『種は船~航海プロジェクトfrom舞鶴』は、
アートプロジェクトという枠を使って作られた乗り物による
「TANeFUNeの風景」によって「陸の風景」を、
特異な形で浮かび上がらせ「風景」そのものを再考させるように思える。

フランスの歴史学者アラン・コルバンは、
著書『風景と人間』(藤原書店、2002)で、
「風景」とは解釈であり、客観性などどいう概念は放棄すべきといっている。

要は「風景」とは普遍的なものではなく、
みる人によって、
何より時代によって変わる、
ということだ。

たとえば、「廃墟の風景」。
一昔前だったら、それはあくまでも「廃墟」だった。
今では廃墟も鑑賞に値するものとしてある程度社会の了解を得ている。
写真集まで出ている事実から推し量ることができる。

その時代時代に「風景」がある。

現在の「陸の風景」の在り方は、
あまりにも杓子定規になりすぎているように思う。

「風景」という言葉をみんなが自然に使うようになった結果、
僕らは目に飛び込んでくる景色を、
あっという間に「よい風景」「悪い風景」、「お金になる風景」といった具合にわけてしまうようになった。
メディアはそれを助長する。
津波被害の土地を撮った写真は「悲しい風景」、
スカイツリーを撮った写真は「美しい写真」。
そうみれなかったら間違った見方をしている、ということになる。

もっと景色そのものをみたい。
そのためには、遠回りにみえる作業だが、
「風景」という考え方自体を眺める必要がある。

その機会をTANeFUNeは僕らに与えてくれるような気がする。
言葉ではなく、体験できるように促してくれる。

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『種は船~航海プロジェクトfrom舞鶴』は、
オーケストラみたいに複数の要素が楽器のように奏でられ複雑に絡み合っている。
「風景」へのまなざしも、ひとつの要素に過ぎない。

このアートプロジェクト全体についてなんらかの文章を書きつづるためには、
要素、要素を丁寧に浮かび上がらせる必要がある。
そうして初めて根底に流れる通奏低音を浮かび上がらせることになるだろう。

今回この場を借りてそれを試みてみようと思う。

 

(テキスト:豊平豪<舞鶴事務局>/2012.6.18)