「種」がもたらしたもの 日比野克彦×津川登昭 対談


「わからない」を許容していく時、「地域らしさ」が見えてくる

「つながる湾プロジェクト」は、松島湾に植えられた「TANeFUNe」という小さな種から芽を吹きました。
見知らぬ土地からやってきた風変わりな種と、戸惑いながらそれを育てた地元チーム。
その葛藤から生まれ、育まれようとしているものは何なのか。
「種」を各地に蒔き続ける日比野克彦さんと、
その種を受け入れ、松島湾岸にひとつながりの意識を育てたいと願う津川登昭さんに、語っていただきました。

日比野 津川さん、プロジェクトの最初に話をした時点では
「種は船」というプロジェクトを「請け負う」的な感覚でいたと言っていたよね。
そこから徐々に変わって「自分たちでやっていくんだ」と思ったっていう。
いろんなプロジェクトが世界中で同時進行してるわけだけど、
その中で少しずつキーワードが似ている、ポイントが近いプロジェクトがあって、
つながる湾プロジェクトのコンセプトに、「種は船」の「記憶をつなげていく」「港をつなげていく」「海からの視点で」

っていうキーワードがひっかかってきた。
じゃあどちらが主導権を握るのかとか、どちらが主役でっていうことではなく、
つながることによってそれがまた違うものに変容していくことで、
今後の展開になっていくと思うんですよ。
なので、「種は船」の成り立ちもそうなんだけど、先のことはわからなくて。
でもわからないということを許容して進んでいくことの決意というか、そこの面白さがあるよね。

「種は船」のプロジェクトでいけば、2012 年に東に向けて舞鶴を出航して、
16年後に西の海からTANeFUNe が帰ってくる姿を
舞鶴チームやタネフネチームはイメージしているけど、途中は見えていない。
逆にそれが、計画的に来年はどこに行って次はどこに行って、
ってばちっと計画を立てると、きっと「請け負う」ことになっちゃうと思うのね。
舞鶴行く前に十和田よろしく、瀬戸内よろしく、鹿児島よろしく、みたいなことになっちゃうと、
任務を果たすみたいになっちゃって、1+1が1のままで終わっちゃうから。
予期できない変化が起こって広がっていくのが魅力であり、
そこを引き受けるっていうのが大事かなと思う。

interview01_01
津川 今だから言えることなんですけど、始まった時はよくわからなかったというのが正直なところで。
やりながら気持ちが変化していったわけですけど、
その変化の仕方というのにもしかしたら「この地域らしさ」が潜んでいるような気がします。自分が実験台になって格闘することで、
自分もこの地域の人間だということをあらためて認識できた気がします。
メンバーそれぞれで捉え方が違うと思いますが、
間違いなく言えるのは、スタートした時点では誤解してましたね。
「何をこなせばいいんだ?」みたいな。
なので、事例というか、今までのタネフネの実例を求めてました。でもそうじゃないよなと。最初は本当にわけわからなかったし、「逃げようかな」みたいな(笑)
interview01_02
日比野 いきなり船がやってきちゃったからね。
どかーんととんでもない大きさでね。
ガレージに置いとけ!みたいな(笑)モノが来ちゃったからね。
津川 最終的にはプログラムがまとまって分かりやすくなってますけど、
ここにいたるまですごく大変でしたね。
ただ話し合いは、定期的にみんなで集まってほんとに夜中まで話しましたね。
無駄になったアイディアもたくさんあって。「タネフネをどうする?」「つなぐってなんだろう?」とか、自分らで考え抜いて、なんとなく光が見え始めて、それをモノにしてきた。
途中から自分らの問題になったんですよ。
勉強会にしても、最初はタネフネがいるからやるって言ってたんですけど、
途中からタネフネはどうでもいいやってなって。
タネフネがなければ勉強会も無かったと思うんですけど、
タネフネ関係なくやる、っていう感じになった時に自信持って「ああこれだ」って言えましたよね。
彩ちゃん(※1)も最初すごく戸惑ってて。

被災した島に自分が理解しきれていない「アート」を持ち込むことに
ものすごく責任を感じてしまっていたみたいです。
島というのがどういう場所かも理解できていなかったですし。
でも恐る恐るでもやってみたことで、この湾にとっての島の存在の大きさや、
文化的な意味を感じることができて、自分なりの活動に展開できている。
成長させてもらったなと。
なので今後やりたいことの一つは、
同じようにタネフネが来て、ビビって、どうする?逃げる?やる?とかって感じで
悩み抜いた地域との交流ですね。
自分なりの悩み方をすることで、自分の中に潜在的にある、
遺伝子の中に眠っているような歴史を掘り起こせると思うんで、
それを経験した人と交流したいですね。

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「湾」と「島」と「人」
日比野 TANeFUNe が最初来た時には、
「湾」というよりは浦戸諸島をステージにするということを言っていたけれど、
実際は塩釜という大きな港を拠点にして4つの島を周ることになった。
塩釜湾のこの立地条件というか、湾と島の関係っていうのは相当特異な、稀な状況だと思うんですよね。
湾は島が無くても湾なんだけど、島々が無かったら「湾」ということを意識できたかというと
きっと違うと思うし、塩釜を母港として浦戸諸島と行き来しながら島々を巡るっていうのが特徴的だった。
津川 他には無いこの湾の特徴だと思います。
島が多いのもそうだし、土砂を運ぶ川が無かったので縄文時代から同じ湾の形を保っている。
自然条件があって地形があって、人間がそこでどう暮らしたかによってたまたまこの湾ができてる。
僕はどっちも大事だと思ってるんですよ、こっち側と島側と。
島がなくても湾なんですけど、この地域のこの湾には成りえなかったし、
やっぱりこれは丸ごとセットで、外すことができない必要な素材なんですよ。
だからタネフネが来た時に「島に行きたい」というのを聞いて、僕は最初に街の方を紹介した。
両方知った上でここを行き来しないと、たぶん本当の島を知ることもなかったのかなという気がします。
日比野 島の人たちはこのプロジェクトをどう思っているのかも気になるところだよね。
津川 島の人たちってお年寄りが多くて、違う表現をして伝えないと伝わらないと思うんで、
そこが課題かなという気はしますね。あと、いずれ島に住むであろう人たち、住みたいと言っている若い人たちがいるんですけど、
彼らが「つながる湾」を意識してくれるといい。
僕は、塩釜の人や、七ヶ浜や多賀城といった同じ松島湾の沿岸に住む人たちと
定期的に飲み会をしているんですけど、
話をすると、湾構想って誰も否定しないですよね。
だからやっぱり必要なのかなっていう根拠の無い自信はあるんですよ。
最初に構想した時に、行政の人に「湾でブランディングしたいんです」って言ったら、
「他の地域のことはやりにくいんだよ」と言われました。
だったら自分らがやればいいやと思って同世代のつながりをまず作っちゃえと。
そしたら今、行政の人とも連携できているし。
行政にやってやってって言うばっかりじゃダメなんだと気付きました。
民間と行政はポジションが違うんで、役割を考えながら共通する部分を育てていくことが必要かなって。
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「つながる湾」が生み出せるもの
日比野 チームwan 勉強会がプロジェクトのエンジンみたいな部分があるじゃないですか。
ここで培っていったものを実行していくみたいな。
牡蠣の養殖に使う道具をホタテの貝の代わりにチタンで作ろうとしてるおじさんがいたりとか、
日和山と縛り地蔵がセットであるのは全国でも寒風沢島ぐらいしかないという話があったけど、
そういう、島の持っている魅力がまだまだどっさりあるような気がするんですよ。
それを見つけて、そこから何か次のプロジェクトを生み出していく。
アート的なつながりっていう見えないものだけじゃなく、
実際に生活の糧になるような産業になっていくとか、雇用を生むようなものになっていったりすると、
それがもう一つの魅力になりますよね。それはこれからの地域アートの課題なんだとも思うけど。アートプロジェクトならではの社会の中でのポジションもあって、
収入もあって、ちゃんと生活がしていけるような。
「水際」での陸上と水上の文化の新しい混ざり方も創れるんじゃないかと思う。
「塩釜じゃないと生まれてこなかったね、あの発想は」みないなものを生み出せると思うんだよね。
津川さんが松島湾、塩釜湾のために、浦戸諸島のためにと考えることが、
結果的に新しい価値観、新しい社会の仕組みを作るぐらいのものになる可能性はあると思う。
それぐらいのことを勉強会だとか、実際のプロジェクトとかの中でやっていけるといいよね。
津川 地域のことを深く掘り下げて自分らで楽しんで、他の地域の人に自慢していきたい。
それを継続していくためには、熱い想いと経済の循環の両方が必要なんだと思います。
そして、何よりも湾でつながることが、新しい力を生むんだと信じています。
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(2013年12月7日/ふれあいエスプ塩竈)※1 彩ちゃん … ビルドフル―ガス代表の高田彩。地元チームとして、津川氏らとともに「つながる湾プロジェクト」を運営している。※2 日和山と縛り地蔵 … 港近くの小高い山を「日和山」と名付けた例は全国に存在し船乗りが山頂に登り天候を見定めたと言われる。「縛り地蔵」は、男たちを島に留めるために女性が地蔵を縛り、天を怒らせようとする「逆風信仰」の対象となった地蔵。
津川登昭
 (一般社団法人チガノウラカゼコミュニティ理事長)
 塩釜市生まれ、多賀城市在住。仙台市の広告会社に所属し「純米酒BAR」「せんコン」などをプロデュース。
 震災後、湾の恵みで営むこの地域は全て兄弟であると感じ、湾コミュニティによる新しい力を生むために一般社団法人チガノウラカゼコミュニティを発足。
「製塩文化を伝える」「湾の産品を売る」「湾コミュニティの拠点としての湾の駅構想」を提唱している

つながる湾プロジェクト ドキュメントブック「海辺の記憶をたどる旅」より

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